共通教育科目「基礎教養1」の「世界の思想」
2007年度1学期水曜4時限
「認識するとはどういうことか?」
第三回講義(April 25. 2004)
§3規約主義の問題
A 公理体系を巡る歴史
公理axiomaという語は、アリストテレスによって哲学に導入された。彼の『分析論後書』で、公理を論証的学問の始源命題、最初の真なる無媒介の命題という意味でもちいた。
1、ユーウクリッド『幾何学原論』の体系
(参考文献『数学の歴史Tギリシャの数学』彌永、伊藤、佐藤著、共立出版株式会社)
ユークリッド(Eukledes)は、紀元前3世紀に、プトレマイオスT世治下のアレクサンドリアのムセイオンで活躍した。ユークリッドの『原論』(Stoikheia)は、定義holoi23、要請aitemata5、共通概念koinai ennoiai9、定理、からなる。公理axiomaという語は、『原論』の中には一つもない。
定義23
1、点は部分のないものである。
2、線は幅の無い長さである。
3、線の端は点である。
4、直なる線は、その上の点に対して一様に横たわる線である。
5、面は長さと幅だけをもつものである。
6、面の端は、線である。
7、平らな面は、その上の直線に対し一様に横たわる面である。
8、平面上の角とは、一つの平面上の二つの線のなす傾きである。ただし、それらの線は、互いに交わり、一方が他にまっすぐにつながってはいないものとする。
9、それらの線が直線であるときは、その角は直線角であるという。
10、直線が直線の上に立ち、そこにできる二つの接角が相等しいときは、それらの角のおのおのは直角であるといい、それらの直線のおのおのは他の直線の垂線であるという。
11、鈍角は直角より大きい角である。
12、鋭角は、直角より小さい角である。
13、境界は何かの端である。
14、図形は一つまたはいくつかの境界で囲まれたものである。
15、円は一つの線で囲まれた次のような平面図形である。すなわちその図形の中にある1点があって、その点からその線までの線分がすべて互いに等しいようなものである。
16、その点は、円の中心と呼ばれる。
17、円の直径は、その中心を通り、両方の側で円の周囲によって境される線分で、それは円を2分する。
18、半円は、直径と、それによって円の周囲から切りとられた部分によってかこまれた図形である。半円の中心は円の中心と同じである。
19、直線図形は、線分によって囲まれた図形で、三辺形は三つの、四辺形は四つの、多辺形は多くの線分によって囲まれたものである。
20、三辺図形のうち、等しい3辺をもつものは等辺三角形、等しい2辺をもつものは二等辺三角形、等しくない3辺をもつものは不等辺三角形である。
21、また三辺図形のうち、直角をもつものは直角三角形、鈍角をもつものは鈍角三角形、三つの鋭角をもつものは鋭角三角形である。
要請5
1、任意の点から任意の点まで直なる線がひけること
2、限られた直線をそれに続いてまっすぐに延長できること
3、任意の中心と距離を持った円をかくことができること
4、全ての直角は互いに等しいこと
5、一つの直線が二つの直線と交わり、その一方の側にできる二つの角を合わせて2直角より小さくなるときは、それらの二つの直線をどこまでも延長すれば、合わせて二直角より小さい角のできる側で交わること。
共通概念9
1、同じものに等しいいくつかのものは互いにも等しい。
2、また、等しいものに等しいものを加えれば、全体は等しい。
3、また、等しいものから等しいものを取り去れば、残りは等しい。
4、また、等しいものに等しくないものを加えれば、全体は等しくない。
5、また、同じものの2倍は、互いに等しい。
6、また、同じものの半分は、互いに等しい。
7、また、重なり合うものは、互いに等しい。
8、また、全体は部分より大きい。
9、また、二つの直線は面分を囲まない。
2、『ポール・ロワイヤル論理学』
はじめて、論理学を公理体系として示そうとした。
4、ニュートン力学の公理系
『プリンキピア』は、公理系になっている。
5、大陸理性主義
(1)デカルトは、メルセンヌなどのパリの学者たちの求めに応じて、『省察』第二答弁の付録として「幾何学的な仕方で配列された、神の存在及び霊魂と肉体との区別を証明する、諸根拠」を書いたとされている。
(2)スピノザ『エチカ』
スピノザ『デカルトの哲学原理』の冒頭には、スピノザが友人のマイエルに依頼して書いてもらい、スピノザ自身が内容をチェックしたと言われている「挨拶」があります。マイエルが、そこで述べている事は、幾何学的な方法を採用することの正当化です。私には、これが大変意図的なスピノザの依頼であるようにおもわれます。スピノザ自身は、おそらくどこにも幾何学的方法の正当化を行っていないのではないでしょうか。そしてそれは、体系構成上不可能だったのではないでしょうか。なぜなら、もし、それをおくと、幾何学的体系全体がその正当化の議論によって正当化されることになり、その正当化の議論を含む学問全体は、もはや公理体系にはならないからです。
学問が、公理体系になるためには、公理体系の正当化の議論自体を、公理体系の中で行われなければなりませんが、それは不可能なのではないでしょうか。
以上の議論は、スピノザへの批判にもなると思います。
6、ドイツ古典哲学
(1)カント
カントの『自然の形而上学的基礎』は、公理と定理からなる公理系になっている。(ただし、『人倫の形而上学的基礎』は、公理系になっていない。これは、道徳論が、経験的な要素を必要とする、ということに原因があると、カント自ら冒頭で述べている)
カントの『論理学』講義は、公理系になっていない。このような論理学の理解は、論理学史研究者からしばしば批判されるカントの論理学理解(論理学はアリストテレス以来進歩していない、というカントの論理学理解)と一致している。
(2)ヘーゲル
ヘーゲルは、公理体系への批判をおこない、独自の弁証法論理を主張する。これは、ヘーゲルのカント批判とも関連している。
7、新しい公理系概念 規約主義の始まり
・ペアノの自然数論の公理系(『数学原理』1889)
(1)N(1)
(2)∀x(N(x)⊃N(x’))
(3)∀x[(N(x)・N(y))⊃(x’=y’⊃x=y)]
(4)∀x(N(x)⊃x’≠1)
(5)[a(1)・∀x(N(x)・a(x)⊃a(x’)]⊃
∀(y)(N(y)⊃a(y))
・ヒルベルト『幾何学基礎論』1899
・ブルバキ(P.ヴェーユ)による数学全体の公理体系化
これらにおける公理は、記号の使用規則の定義(規約)だとみることができる。したがって、これらの公理が真であることを規約としてみとめるのではない。真や偽であるためには、これらの公理が何かについての判断で無ければならず、そのためには、公理の解釈が必要である。しかし、これらの公理系は、記号が何かを指示しているとは考えない。
7、命題論理学の公理体系の歴史
(1)フレーゲの公理系(1879)
1、 x⊃(y⊃x)
2、 (x⊃(y⊃z))⊃((x⊃y)⊃(x⊃z))
3、 (x⊃(y⊃z))⊃(y⊃(x⊃z))
4、 (x⊃y)⊃(〜y⊃〜x)
5、 〜〜x⊃x
6、 x⊃〜〜x
α、 代入法則
β、 推論法則
(2)ニコッドの公理系(1917)
1、 (x・(y・z))・((u・(u・u))・((v・y)・
((x・v)・(x・v)))
α、 代入法則
β、 論理式 x と x・(y・z)から新しいzを得る。
(3)ラッセルとホワイトヘッドの公理系(1925)
1、 xvx⊃x
2、 x⊃xvy
3、 xvy⊃yvx
4、 (x⊃y)⊃(zvx⊃zvy)
5、 xv(y⊃z)⊃yv(xvz)
α、 代入法則
β、 推論法式
(4)ヒルベルトとアッカーマンの公理系(1928)
1、 xvx⊃x
2、 x⊃xvy
3、 xvy⊃yvx
4、(x⊃y)⊃(zv⊃ Azvy)
α、 代入法則
β、 推論法式
(5)ルカシェヴィッツの公理系(1930)
1、 x⊃(y⊃x)
2、 (x⊃(y⊃z))⊃((x⊃y)⊃(x⊃z))
3、 (〜x⊃〜y)⊃(y⊃x)
α、 代入法則
β、 推論法則
(6)ゲンツェンの自然推論系(1934)
B 公理主義のアポリア(難問)
1、公理設定のアポリア
2、定理導出のアポリア
(a)限定的規約主義のアポリア
(1)ルイス・キャロルの指摘
(参照:L.キャロル『不思議の国の論理学』柳瀬尚紀編訳、朝日出版社、pp.17-24))
ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』pp.59-62
アキレス曰く、
「A PならばQである。
B Pである。
Z Qである。
我々は、AとBから、Zを導出できる。」
亀曰く
「さて、どうしてでしょう。AとBからZを結論するときには、次のCが前提になっているのではないでしょうか。
C AとBを認めるならば、Zを認めなくてはならない。」
アキレス曰く
「やれ困ったやつだ。では、そいつを前提に加えることにしよう。
A PならばQである。
B Pである。
C AとBを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。
Z Qである。
我々は、AとBとCから、Zを結論できた。どうだ。今度は、納得できたかね。」
亀曰く
「さてさて、どうしてでしょう。AとBとCからZを結論するときには、次のDが前提になっているのではないでしょうか。
D AとBとCを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。」
アキレス曰く
「やれやれ困ったやつだ。では、そいつも前提に加えることにしよう。
A PならばQである。
B Pである。
C AとBを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。
D AとBとCを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。
Z Qである。
我々は、AとBとCとDから、Zを結論できる。どうだ。これで納得したかね。」
亀曰く
「さてさてさて、どうしてでしょう。AとBとCとDからZを結論するときには、次のEが前提になっているのではないでしょうか。
E AとBとCとDを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。」
アキレス曰く
「やれやれやれ、困ったやつだ。では、そいつも前提に加えることにしよう。
A PならばQである。
B Pである。
C AとBを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。
D AとBとCを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。
E AとBとCとDを認めるならば、Z「Qである」を認めなくてはならない。
Z Qである。
我々は、AとBとCとDから、Zを結論できる。どうだ。もう納得したかね。」
亀曰く
「さてさてさてさて、どうでしょう。・・・・・・・・・・
(2)クワインの指摘
(参照:飯田隆『言語哲学大全U』勁草書房、第一部、第二章。)
(b)根源的規約主義